▼実家に帰ってましたが、冷凍都市トキオに帰ってきたよ。ネットが無い環境は快適!ギスギスの無い世界!リアル!PCを捨て街へ出よう!
▼とりあえず満員電車がまた新鮮且つ不快だったので無くなってしまえ。
ユリイカ買ったよブログ作法とかいう特集号。鹿児島にはユリイカなんて置いてないっすよ取り寄せになりますって四軒はしごして言われ放題。五件目紀伊国屋書店でようやく買った。1300円。高い。対談の部分は読んだ。はてなに人文系の人的リソースが集中しているという漠然としたイメージを担保すること自体僕は賛成出来ない*1けれども、担保したとしてそれに沿ってはてな内ユーザーで対談することにユリイカ的な価値があると思ってやられたであろう対談。という印象。だから「はてな」の話題やそれに絡められて語られる話題が必然的に増えるのは仕方ないことだよなぁと割り切ってはみたもののあまりに酷いので、はてコロUZEEEの典型的な形である、馴れ合い/確認/語り合いを全体を通して見せられただけのような気がしたっすよ。買わなければ良かったかな。。対談以外の文章に期待しまっす。
▼あとさーユリイカのこの号に中原中也賞の受賞作が載ってたんだけどさあ、俺にはその受賞作が単語の選び方といい、扱う内象意識といい、メンヘルの延長線にしか思えなくてさー、なんだかなーって思ったー。自己の存在が希薄とか生の実感っていうテーゼはもう手垢すぎてそれをいかに言葉で、行間で、行変えで、装飾されても「ハイソーデスカ」としか思えなくなってるし、むしろ僕は文章書く人が生きる平凡であろう日常をその人が見て、書くことによって奇怪さが現前してくるような文章や題材が好きだからこういう感想を僕は持つんだろうな、と思った。

*1:人文的リソースがはてな内には豊富だということに賛成できないのは、俺はそう思えないという単純なことであって、つまり、投反射されるはてなのイメージというのは自分の趣味嗜好が反映されたものになるのは普通のことで、この多いと感じるイメージが担保されるということは、そのイメージを抱いた人が人文寄りであることに他ならないのであり、その自分の立ち位置とそれによる影響を意識した考査があまり見られず、だーっとインセンティブだ、サスティナビリティだといわれてもピンとこないなと思った。そういう自分の立ち位置を意識せずにやるのがすごい「はてな」っぽいですねと思いましたよ。